講演会「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」西川一三、野元甚蔵さんが生き抜いた時代を考える(江本嘉伸)
(本イベントは終了いたしました。ご参加いただいた方々、ありがとうございました。)
2015年夏。「戦後70年」の節目にあたることし、太平洋戦争と日本の敗戦、GHQ管理下のその後の復興の模様などをテーマに、さまざまな角度から検証がなされています。しかし、広範な現代史のすべてに目が届いているわけではもちろんありません。たとえば、日本とチベットの昭和の関係史も、ほとんど顧みられることのない1ページです。

2015年1月、太平洋戦争を目前にチベットに潜入した、かっての農業青年が故郷の鹿児島で家族に見守られつつ天に旅立ちました。野元甚蔵(のもと・じんぞう)さん。(写真右)享年97才。元陸軍特務機関モンゴル語研修生。その著書『チベット潜行 1939』に、チベット潜入のいきさつ、ダライ・ラマ14世が4才の時のラサ入りの情景、当時のチベットの農村の情景など貴重な体験が詳しく記録されています。
2008年2月には「秘境西域八年の潜行」で知られる、あの西川一三(にしかわ・かずみ)さん(写真左)が盛岡の病院で亡くなりました。享年89才。モンゴルからチベットまで自分の足ひとつで歩き通し、ラサではデプン大僧院で小坊主を勤め、インドでは乞食の暮らしを共にするなど破天荒な青春を生き抜き、帰国後も「人間、最後まで仕事」と、リタイアを拒否、終生頑固な人生を貫きました。
明治から昭和まで、仏教者をはじめチベットに渡った日本人は10人います。
明治の中期、仏教の原典を求めて旅だった能海寛(のうみ・ゆたか)、河口慧海(かわぐち・えかい)、寺本婉雅(てらもと・えんが)、外務省の特別任務を帯びて潜入した成田安輝(なりた・やすてる)ら4人をを仮に「第一グループ」とすると、、明治末期から大正にかけて2度チベット入りした冒険野郎、矢島保治郎(やじま・やすじろう)、大谷光瑞の命でラサの僧院で修行した多田等観(ただ・とうかん)、青木文教(あおき・ぶんきょう)らは、「第2グループ」とすることができるでしょう。
昭和の時代に入ってしばらく日本人のチベット行きは途絶えますが、中国と開戦した軍部はチベットはじめ「西北」の情勢に関心を持ち、情報員として日本の青年たちを送り込もうとしました。野元甚蔵、木村肥佐生(きむら・ひさお)、西川一三らは、そうした状況を背景に選ばれた情報員でした。
チベットを目指した最初の日本の旅人の行動から百年を数えた2001年暮れ、私たちは「十人はなぜチベットをめざしたか チベットと日本の百年」というフォーラムを実行しました。
そのフォーラムに特別参加、満員の聴衆(なんと定員の2倍の参加者がありました)の前でチベットでの鮮烈な体験を語ってくれたのが、野元、西川さんでした。
あのフォーラムでのお二人の語り口、発言内容は、強烈な印象を私たちに残しました。この機会に、今回は、チベットをめざした10人を振り返るとともに、お二人の14年前のフォーラムでの貴重な映像を上映、できるだけ多くの皆さんに見てもらおう、と考えています。
あの非情な戦争の時代を駆け抜けたお2人への感謝と追悼の心をこめて「もう一つの戦後70年」を実行します。どうか、この機会を逃さずご参加ください。
2015年8月15日
西川一三、野元甚蔵さんを偲んでチベットと日本を考える会
代表 江本嘉伸

(当日の様子)
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